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第42回 他者の「尊厳」はどうすればわかる? 「人間の尊厳」 安原 毅先生
2026.02.02
Human Dignity の「人間」は、もちろん全人類を指すのだろう。そこには例外はない。でもよく言われることだが、人間の顔は一人一人みな違うのだから、考えていることも皆違う。とすると「尊厳」(と各自が考えること)もまた人によって違うのか?
もう30年近く前に日本で出版されたテキストで、「ラテンアメリカ諸国には多くの貧困層がおり、路上生活者も多い。しかし彼らは、たとえ物乞いをしても内面的尊厳まで傷つけられることは無い」と断言しているのがあった。果たして他者の内面的「尊厳」などどうやって調べるのだろう? 日本のラテンアメリカ研究者の多くはこういう時、現地の人々にアンケートをとってその結果を集計し判断する。では路上生活者にアンケートして「あなたは内面的尊厳を傷つけられていますか」なんて聞いたのだろうか。常識的に判断して、外国人からこんな質問を受けてYesと答える人は滅多にいないだろう。誰だって自分をそんなに貶めるようなことを答えるはずはない。
もちろん実際にはこんなストレートで失礼な質問をする研究者はいないだろう。家族構成や人間関係の不安、将来の心配事などを訪ねて、そこから「内面的尊厳を傷つけられているか」を演繹するのだろう。だとすると、研究者が自身で考える「尊厳」概念をそのまま他者に適用していることになりかねない。
自分自身で考えている尊厳や幸福感といった概念を、そのまま他の社会に生きる人々に当てはめても、研究にはならない。ここで経済学なんかやっている者の立場で言わせてもらえば、人の気持ちや心は多かれ少なかれその人が生きる社会の中での位置づけによって左右される。だから社会科学では、個人の気持ちや幸福感はとりあえず脇に置いておいて、社会構造・社会法則を研究する。こう言ってしまうと、「やはり経済なんかやってる奴は人間の尊厳を考えていないんだ」と批判されるのだが、こんな批判は的外れだ。特に開発経済学では、人間が労働を通じて社会参加することで個人の尊厳も社会の開発も実現されると考える。
ところが厄介な問題がある。日本はじめ先進諸国では想像もつかないほどの貧困状態にある人々 ―路上生活者やスラム街の人達― にも、労働を通じて社会参加することが人間の尊厳だ、と偉そうに説教できるか? 結局最初の問題に戻ってしまうけど、外国社会を本当に理解するなんて簡単にできることではない。むしろ、自分で勝手に分かったつもりになることは危険なことだ。だったらどうすればよいか? 外国社会といっても様々なのだから、地球上にある社会を少しでも多く知ることがまず大切だ。そしていろいろの社会の仕組みや慣習を比較して、初めて社会参加の意味も分かるだろう。だから外国地域研究は、グローバルスタデイーズでなければならない。これでは結論にならないけど、とりあえずここまで。