南山大学 国際教養学部 Faculty of Global Liberal Studies

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第40回 オランダの街を歩きながら人間の尊厳を体験する 「人間の尊厳」 吉田 信先生

2025.10.31

 このエッセイを書いている現在,202511月末までの予定でオランダでの在外研究をおこなっている。ヨーロッパの街と日本を比べると様々な違いに気がつかされるが,そのうちの一つが名前に対する受け止め方である。

 私の住んでいる街はライデン市といい,古くは日本を退去した後にシーボルトが居を構え,その旧宅は現在シーボルト博物館として見学が可能である。立派な構えのシーボルト博物館の隣にたたずむ家の壁には鈍い色のプレートが埋め込まれている。注意しないと気づかずに通り過ぎてしまいそうになるが,そのプレートにはデカルトという名前と1640という年号が刻まれている(図1)。デカルトが異端審問のまだ盛んであったフランスを逃れ,近代哲学の出発点と位置づけられる『方法序説』を出版したのが1640年,ここライデンの地においてであった。

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(図1)

 こうした著名人の名はあちこちの家の壁にプレートとして残されているだけでなく,通りの名称にもみられる。ライデンだけでなくオランダ,あるいはヨーロッパの大半の街では,通りの名が著名人にちなんでつけられていることは普通のことだろう。ひるがえって日本について考えてみると,特定の人物の名を通りに冠している例はあるのだろうか。京都には近衛通があるものの,これは旧近衛邸にちなんだものであり,特定の人物にちなんだものではない。この違いはどこからきているのだろうか。街を歩いているとしばしばそういった空想にとらわれる。のみならず,街を歩いているとさらに興味深い経験をすることが最近では増えてきている。

 

 私のよく利用する施設のひとつが,受入研究機関でもあるライデン大学の中央図書館である。ここは,初めてオランダに留学した30年前からお世話になっていて,自分の研究を進めていくうえで欠かすことのできない施設である。

 数年前から気がつくようになったのだが,図書館に沿った歩道から陽のあたり具合によっては鈍い光を目にすることがある(図2)。近寄るとレンガで舗装された歩道に真鍮のプレートが埋め込まれており,腰をかがめてのぞきこむと次のようなことがオランダ語で刻まれているのを読み取れる(図3)。

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(図2)

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 (図3)

(向かって左)

かつてここに住んでいた

ラヘル・コスマン=メンデス・ダ・コスタ

1884年生

1944年ウェステルボルクから移送され

19447月初旬アウシュヴィッツにて殺害される

 

(向かって右)

かつてここに住んでいた

アルノルト・カレル・コスマン

1910年生

1940515

プルメレントにて命を絶つ

 

これは,「躓きの石」と呼ばれる小さな真鍮のブロックで,ナチスによる迫害の犠牲者の名前,生年月日,移送された年月日,殺害された年月日と場所が刻まれている。現在ではヨーロッパ900以上の都市の通りに45,000名分の「躓きの石」が埋め込まれている。ドイツ人芸術家ギュンター・デムニク個人のささやかな活動から始まり,ヨーロッパ各地に受け継がれ,現在もその活動は拡がりをみせている。

 17世紀以来多くのユダヤ人が移住してきたオランダ,とりわけアムステルダムにはかつて大規模なユダヤ人街が存在していた。ナチスの占領下でも破壊を免れたユダヤ教会であるシナゴーグも現存しており,周辺の旧ユダヤ人地区を少し注意して歩くだけで容易に「躓きの石」に遭遇する。「躓きの石」は,1名分だけのこともあれば,複数の人物,時には家族全員と思われる氏名の刻まれたものをみかけることもある。

 「躓きの石」は,刻まれている人物がどのような運命をたどったのかを私達に簡潔に伝えてくれる。アウシュヴィッツ,ソビボル,マイダネク,ベルゲン=ベルゼンといった絶滅収容所,あるいは強制収容所で生涯を終えた人がいかに多いかをあらためて分からせると同時に,ごくまれではあるが収容所を生き延びた人のプレートをみることもある。

 複数の「躓きの石」が並んで埋め込まれている場合,これらの人たちの関係はなんであったのか,自然と思いを馳せることになる。ライデン大学図書館前の「躓きの石」に刻まれたラヘル・コスマン=メンデス・ダ・コスタは,1884年生まれなのでアウシュヴィッツで生涯を終えた時の年齢が5960歳。隣のアルノルト・カレルは1910年生まれ。ラヘル・コスマン=メンデス・ダ・コスタが母親と仮定すると,彼女が25から26歳で産んだ子ということになる。アルノルト・カレルの姓がコスマンであることから,父の姓がコスマンであること。ラヘルは,元々はラヘル・メンデス・ダ・コスタという氏名であることも分かる。

 ちなみに,メンデス・ダ・コスタという姓(あるいはダ・コスタ)は,イベリア半島出身者,特にポルトガルで今日もみられる姓であることから,彼女の先祖はイベリア半島出身のユダヤ系ということも読み取れる。彼女の先祖はレコンキスタにともなうユダヤ人の追放から数世代を経てオランダに移住してきたのだろう。アルノルトの没年月日は,ドイツ軍のオランダ侵攻によってオランダが降伏した翌日に自ら命を絶ったことがわかる。アルノルトの父,ラヘルの夫にあたる人物については「躓きの石」がないこともあり,詳しいことはわからない。

 「躓きの石」とは,なにを私達に語りかけているのだろうか。ナチスによるユダヤ人虐殺の犠牲者を追悼する意味がそこに込められていることは,誰しもが気づくことだろう。同時に,過去に生じた出来事として歴史の向こう側に置かれてしまいがちなホロコーストの犠牲者の存在を,私達の生きている日常の空間,こちら側に呼び戻し,その存在を現前化させるものといえる。「躓きの石」に気づき,足を止め(躓き),かつてそこに暮らしていた人々の存在に思いを馳せることこそ,「躓きの石」の狙いである。それは,ヨーロッパの街で触れる著名人の名とは違った,私達の大半がそうであるように,その名前が没後すぐに忘れ去られてしまいそうな普通の人々の名前なのである。

 

ホロコーストの犠牲者を追悼するという点に注意を向けるならば,アムステルダムの旧ユダヤ人地区の一画に2021919日に設置された国立ホロコースト追悼記念碑は,オランダのホロコーストの犠牲者を国の施設として追悼することが目的であり,「躓きの石」とは異なる性格を担っている(図4)。ホロコーストの犠牲者を追悼する記念碑といえば,ベルリンの壁崩壊後に生じた広大な空間に,長方形の黒い大理石――誰もがひと目見て棺桶を想像せざるを得ない――を敷き詰めた「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」を思い浮かべる人も多いだろう。

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(図4)

 しかし,アムステルダムの記念碑は,ベルリンの記念碑とは異なる点がある。デザインが異なるのは当然として,ベルリンの記念碑があくまでも「ユダヤ人」を追悼する記念碑であるのに対して,アムステルダムの記念碑は,ユダヤ人のみならず,ホロコーストの犠牲となったシンティ・ロマを含むものだからである。

 もうひとつ異なる点は,ベルリンの記念碑とは比較にならないほど手狭な空間にダニエル・リベスキンド――彼自身ホロコーストの生存者を両親に持ち,ベルリンのユダヤ博物館のデザインでも有名な建築家である――によりデザインされた記念碑には,ホロコーストの犠牲となったオランダのユダヤ人,シンティ・ロマの名前,102163名分が刻まれている点である。そのため,この記念碑は設置から間もなく「名前の記念碑」と呼ばれるようになり今日に至っている。アンネ・フランクの名前も,アンネリース・フランク(Annelies Frank)としてこの記念碑に刻まれているのを確認することができる(図5)。

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(図5)

 「名前の記念碑」をさらに特徴づけているのが,毎年127日の国際ホロコースト追悼日に10万名を超える犠牲者全員の氏名を読み上げる式典をおこなっていることだろう。ボランティアが交代で約3日かけて犠牲者の氏名を昼夜問わず読み上げていく(オンラインでの中継もおこなわれる)。記念碑に刻まれた名前は,式典に参加した人々によって共有され,追悼される。言い換えれば,犠牲者の名前が読み上げられる時,彼/彼女はこの世界にかつて生きていた人として私たちの間に立ち上がるのである。

 

名前を記録して,記憶していく行為を続けていくこと。自身もユダヤ系でありナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命した政治哲学者のハンナ・アーレントは,死について有名な考察を残した。彼女によれば,人は二度死ぬという。一度目は身体の機能が停止する,いわゆる私達が通常表現している物理的な死であり,二度目はその人を覚えている者がこの世からいなくなった時であるという。

 「躓きの石」に私達が躓く時,私達は亡くなった人物に思いを馳せることでその人物を心のなかでよみがえらせているといえるのかもしれない。私達の存在と深く切り離せないのが,私達の名前であり,その尊重こそ人間の尊厳の第一歩だといえる。しかし,「躓きの石」を紹介してこのエッセイを終えることは,十分ではない。現在の国際社会は,冷戦崩壊後の大規模な民族紛争に続く殺戮をウクライナで,ミャンマーで,スーダンで,あるいはガザで目にしているからである。

 官公庁や各国の大使館が位置する行政都市であるデン・ハーグ。中央駅を出てすぐ目の前に移民局の建物がある。文書館での作業を終えた後,移民局を通り過ぎる際に一人の人物がマイクを握ってなにかを読み上げていることに気がつき足を止めた。彼は,ガザで犠牲になった人たちの名前を移民局の前で読み上げていたのだった(図6)。周囲を封鎖され逃げる場所もないなかで生命を落とす人々に,国際社会は無力であり続けている。私達が彼/彼女たちの名前を知ることはない。亡き人への尊厳さえ国際政治の権力関係によって秩序づけられているのが,私達の生きている国際社会なのである。記憶に足る犠牲者と記憶しなくてもよい犠牲者の区別が存在していいのだろうか。ガザの犠牲者の名前が読み上げられるたびに,誰が彼らの名前を記録し,記憶していくのだろうか,と思わずにはいられなかった。

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(図6)

※写真撮影:すべて吉田信先生によるもの(ダウンロードおよび転載不可)

 

 

 

 

 

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