南山大学 国際教養学部 Faculty of Global Liberal Studies

深めて!南山GLS 学生の活躍 GLS教員リレーエッセイ

第39回 共感する他者 「人間の尊厳」 南 祐三先生

2025.06.09

 イノちゃんはコミュニケーションが苦手である。もう4歳なのだけど言葉が遅くて、感情をうまく言語化できず、表情も乏しい。そのため保育園でお友だちの輪になかなか入れず、いきおいジグソーパズルやお絵描きなど、一人遊びの時間が多くなる。同い年の妹のコトちゃんが周囲にますます関心をもって"世界"を広げ、より一層言葉巧みに"思い"を伝えてくれるようになってきただけに、正直、親として心配は深まる。

 そんなイノちゃんがある日、とても嬉しそうにしていたという。ほし組の子たちが順番に自分の名前を言う流れになって、イノちゃんも自分の順番できちんと名前を言えて、驚きの声とともにみんなに褒められたらしい。ミク先生がそう教えてくれた。人は誰かに褒められ、称えられると嬉しくなる。子どもでも大人でも、それは同じだ。

 「人間の尊厳」というテーマを与えられて、さて何を書こうかと思案中、ふいにこのエピソードを思い出した。この時のイノちゃんの喜び――他者に認められて感じる喜び――は、自分の人間としての尊厳が守られたという感覚に通じているかもしれないと思ったからである。もちろん、イノちゃんはまだ「尊厳」という概念を理解できないし、その言葉を聞いたことすらないはずだ。けれど、きっと彼女はこの時、お友だちやミク先生から自分の存在を認められ、尊重されたと感じたと思う。

 この例が適当なのかわからない。でもそれを「尊厳」と呼んでいいとすれば、どうやら尊厳なるものは本人の意識や自覚とは無関係にそこにあるものということになりそうだ。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳および権利において平等である」と世界人権宣言(1948年)第1条がいうように、それは人間(主体)に内在する生得的な特質として想定されている。しかし、それが「ある」ことと「守られている」ことは、おそらく別の問題だ。以下ではそのことについて考えてみたい。

 このリレーエッセーでほかの先生方も指摘しているように、「尊厳」という概念はじつは非常に曖昧で、いくつかの思想的根拠をもつ。しばしば言及されるのが、尊厳の源には神聖性があると捉え、神が人間をその似姿に創造したことを根拠として人間を別格の存在とみなし、人間の尊厳は不可侵であるとするキリスト教の考えである。しかしこれに対する批判がないわけではない。十字軍や奴隷制、アメリカやオーストラリアの先住民支配など、「聖典のなかにいくら明確な根拠があっても、キリスト教徒は他者を人間ではなく「獣」とみなして、その尊厳を侵害してきた」歴史的事実があるからである。人間は生まれながらに尊厳をもつとしても、「尊厳とされるもの自体には他者による侵害を防ぐ力はなく、それを尊重する他者の存在が不可欠」なのである[1]

 フランスの思想家シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909-1943)もこれに近い哲学的思考、すなわち「権利」や「尊厳」の根拠となる他者の存在の重要性を述べている。哲学教師で、極左の活動家でもあったヴェイユは、『根をもつこと』という著作の冒頭で「義務の概念は権利の概念に先立つ」と論じている。曰く、「権利の観念は義務の観念に従属し、これに依拠する。ひとつの権利はそれじたいとして有効なのではなく、もっぱらこれに呼応する義務によってのみ有効となる」[2]。これを分析した亀喜は次のように言い換えている。「まずわたし(主体)に権利があるのではない。わたし(客体)に対し、義務を負うことを認める他者(主体)がまず存在し、それによってわたしに権利が認められる。どの人も等しく権利を有するのは、それに先だって、どの人も等しく他者に対する義務を負うことを認めるからである。人間は、手や足を持つように権利を持つのではない。権利は人間の関係のなかで初めて成り立つ」[3]。人は生まれながらに権利をもつのではなく、あるいはそうだとしても、それが「成り立つ」、すなわち守られるのは他者との関係のなかにおいてなのである。

 ヴェイユは未熟練工としての労働経験から人間の尊厳について考察したことでも知られる。193412月、25歳の彼女は哲学教師の職を中断して労働者の世界に足を踏み入れた。過酷な労働の日々を綴った日記が、死後に出版されている[4]。これを分析した辻村によれば、工場生活のなかで肉体的にも精神的にも人間らしい扱いを受けず、疲弊したヴェイユの尊厳の感情は打ち砕かれた。この時打ち砕かれた感情を、ヴェイユは「外的理由に支えられた感情」と表現している。「外的理由」とは、身体的状況や他者からの扱われ方を意味した。極度の疲労と他者(上司)からの理不尽で粗暴な扱いのなかで、ヴェイユは尊厳の感情を失ったのである。同時に彼女は「内的理由」、つまり自分にも備わっている、「天与の人間的性質だと思っていたもの」が、すべて結局は外的理由に依拠したものだったことに気づくのである。その後彼女は、そんな工場生活のなかでも時折出合う「個人の自由を前提とした人間関係」に触れるなかで人間の尊厳の感情を取り戻していく。「共感」を軸にした、そのような人間関係こそが「人間の偉大さにふさわしい」とヴェイユには思えた。以上のように読み解く辻村は、「人間同士が自然と相手に共感を見出す前提があって初めて,人間らしいつながりが可能になる。「人間の尊厳」は、そのようなつながりの中にあるとは言えないだろうか」と考察している[5]

 この「共感」は、フランス革命研究者リン・ハントが「人権」なるものが歴史的にいかに形成されたのかを追究した著書において強調する要素でもある。ハントによれば、18世紀、展覧会での絵画の鑑賞や拷問に関する記述、書簡体小説を読むという新しい文化経験を重ねるなかで、人びとは他者の痛みを想像し、自律性や共感という力を身につけた。人権が自明なものとして宣言される前提には、こうした「感情にうったえる力」が必要であったという。すなわち「自律的な個人が他者に共感し、わたしたちの「内面の感情」は根本的に似ていることがひろく承認され」るようになってはじめて、人権は普遍的で、平等で、生得的なものとして主張されるようになった。ハントは結論で、「あなたは人権が侵されたときに心の痛みを感じるがゆえに人権の意味を知っているのだ」と述べている[6]。「人権」を「尊厳」に置き換えても、おそらく同様のことが言えるだろう。

 ほし組のお友だちは4年間の人生のなかで、あるいは保育園で過ごしてきたわずか2年のうちに、みんなの前でお話することの恥ずかしさや苦手なことを強いられた時の緊張感を経験し、いま目の前で試練に晒されているイノちゃんのピンチが、その嫌な気持ちが想像できたのだろう。そしてイノちゃんは、お友だちや先生といった共感してくれる他者が驚喜の声とともに褒めてくれたからこそ、自分が大切にされ認められたと感じてとても嬉しかったのだと思う。些細で、ありきたりなエピソードかもしれないけれど、イノちゃんにとって、そして私や家族にとって、それはかけがえのない経験なのだ。

 

 

[1] 柴嵜雅子「人間の尊厳の問題点」『国際研究論叢』33(1)2019年、p. 60.

[2] シモーヌ・ヴェイユ(冨原眞弓訳)『根をもつこと』(上)岩波書店、2010年、p. 8.

[3] 亀喜信「権利と義務:人間の尊厳について考えるために」『人権問題研究』21号、2024年、p. 34.

[4] 邦訳は、シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『工場日記』筑摩書房、2014年。

[5] 以上、辻村暁子「シモーヌ・ヴェイユの思想における「人間の尊厳」の概念:その形成における工場体験の役割」『仏文研究』33号、2002年を参照。

[6] 以上、リン・ハント(松浦義弘訳)『人権を創造する』岩波書店、2022年(初版2011年)を参照。

 

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