南山大学 国際教養学部 Faculty of Global Liberal Studies

深めて!南山GLS 学生の活躍 GLS教員リレーエッセイ

第38回 共に生きる社会と人間の尊厳 「人間の尊厳」 林 徳仁先生

2025.04.11

 私はこれまで、アジア諸国における外国人労働者の受け入れをテーマに、各地でフィールドワークを行ってきました。インタビューを通して記録してきたのは、彼らが労働現場や日常生活の中で直面する困難、そしてそれを乗り越えていく過程です。来日直後の戸惑いや言語の壁、職場での適応、地域社会との関係づくりなど、語られる課題は多岐にわたります。特に女性の場合は、子育てと仕事の両立という課題にも直面しています。背景や職業、家族構成、滞在年数は実に多様であり、それぞれが異なる工夫を凝らしながら生活しているのです。

 そのような多様な語りのなかで、しばしば共通して聞かれるのが、「どれだけ日本で長く暮らしても、社会の中では〈外国人〉としてしか見られない」という感覚です。この一言には、日本社会における受け入れの現実とその限界が端的に表れているように思います。多くの協力者たちは日本語を流暢に話し、納税し、地域社会にも積極的に関わっています。行政窓口で「やさしい日本語」による丁寧な対応を受けることもあり、それをありがたく感じるという声もあります。

 しかし一方で、「いつまでも"わからない人"として扱われているように感じる」「支援の対象としては見られても、市民としては受け入れられていない気がする」といった声も根強く存在します。ある女性は、「地域活動に参加しても、"外国人だから"という前提で話されると、自分がこの場に本当に属しているとは感じられない」と語りました。ここに見られるのは、「制度的な受け入れ」が一定程度進んでいる一方で、「社会的な受容」がそれに追いついていないという現実です。

 たしかに、日本では在留資格制度の整備、多言語対応の行政サービス、日本語教育や医療・福祉制度など、制度面での包摂は進展してきました。しかし、日常のまなざしには、相手を「一時的な存在」や「常に配慮が必要な人」として見る無意識の枠組みがなお残っています。そうした視線の蓄積は、相手の力や経験を正当に評価することを妨げ、結果として対等な社会関係を築く機会を奪ってしまいます。

 このような状況は、当事者に「共に生きてはいるが、同じ地平には立っていない」という感覚をもたらします。そしてそれは、単なる感情の問題にとどまらず、人間の尊厳という視点から見たとき、構造的な課題として捉える必要があります。「人間の尊厳」とは、すべての人がかけがえのない価値を持つ存在として認められ、尊重されるべきだという考えに基づいていますが、それは理念として語られるだけでは意味を持ちません。日常の関係性や制度運用のなかで、実質的に保障されていなければならないのです。

 だからこそ、私たちは「多文化共生」や「社会的包摂」といった言葉の意味を今一度問い直す必要があります。共生とは、異なる文化や背景を持つ人々を単に理解することではなく、彼らを社会の対等な構成員として認識し、尊厳ある存在として向き合うことです。そのためには制度や政策の整備とともに、私たち一人ひとりのまなざしの変化が不可欠です。日常のなかで他者の声に耳を傾け、違いを尊重し、その人が持つ力や可能性に目を向けること――そうした姿勢の積み重ねが、誰もが「ここにいていい」と感じられる社会の基盤を築いていくのだと思います。

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