深めて!南山GLS 学生の活躍 GLS教員リレーエッセイ
第36回 現代の社会で「人間の尊厳」は生き残れるか? 「人間の尊厳」大竹 弘二先生
2025.03.06
南山大学のモットーにもなっている「人間の尊厳」は、キリスト教のなかに見られる考えだと言われています。キリスト教においては、すべての人間は等しく神の子であり、それゆえすべての人間は平等に尊厳を持っているとされ、こうした考えは近代になって登場した普遍的人権の思想にもつながります。「人間の尊厳」がキリスト教だけに由来するかどうかはともかく、すべての人に等しく与えられた尊厳という考えは、今日の世界では広く受け入れられています。例えば、1948年に国連で採択された世界人権宣言では、第1条で「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳および権利において平等である」と謳われています。尊厳は、「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、出生または他の地位等」(第2条)に関わらず、万人が持っているのです。また、ドイツをはじめ、イタリア、スウェーデン、スペイン、ギリシアなど世界各国の憲法でも、すべての人が持つ個人の尊厳を尊重しなければならないことが述べられています。
人間の尊厳という考えが重視されるようになったのは、近代になってからのことです。前近代の社会でより重んじられていたのは、「尊厳(dignity)」ではなく、むしろ「名誉(honor)」です。歴史学や社会学などの研究ではしばしば、名誉の社会から尊厳の社会への移行によって前近代と近代は区別できるとされています。政治哲学者のチャールズ・テイラーは、このことを簡単に説明しています[1]。名誉は誰にも等しく与えられるものではありません。それは、古代ギリシアにおけるオリンピック競技の勝者、あるいは中世社会における王侯貴族のように、他の人々に比べて卓越した能力や身分を持った人に与えられるものです。そして、そのような名誉は、それを得るために、もしくはそれを守るために命を賭けるほどの価値があるものとみなされていました。ところが近代になると、他人より優れていることよりも、すべての人が同じように尊重されることのほうが重要となります。誰にも等しく尊厳があり、平等な人間として誰も尊厳を傷つけられてはならないのです。人間の尊厳は、まさに近代の民主主義社会にふさわしい考えだと言えます。
しかしながら、現在では、こうした人間の尊厳という考えを揺るがすような現象がさまざまなかたちで見られるようになっています。
一つ目は、SNSの発達といった現代のメディア状況によってもたらされる人々の承認欲求の肥大化です。先に触れたテイラーは、近代社会においては、人は他者と平等に尊厳を持つだけでなく、むしろ他者とは違う自分自身の個人的なアイデンティティ(いわゆる個性)を探し求め、それを他者に認めてもらいたいと欲するということも指摘しています[2]。結局人は、単に他人と同等の存在であるだけでは満足できず、自分のユニークなアイデンティティを他の人たちから承認、さらには賞賛してもらいたいのです。SNSはこうした承認欲求を肥大化させ、いまや人々はSNSを通じて自分たちのきらびやかな姿を誇示し合っています。ある意味では「名誉」を求める意識の復活とも言えるこうした状況のなかで、人々は自分がいかにユニークであるかを見せ合い、嫉妬し、互いに消耗していくことになります[3]。
二つ目は、人々が互いを平等な尊厳を持った存在として尊重するという態度が薄れ、自分の立場を絶対視して他者を攻撃する傾向が強まっているのではないかということです。最近話題となった社会学者ブラッドレー・キャンベルとジェイソン・マニングの著書『被害者文化の台頭』(2018)は、こうした事態を「被害者文化」という言葉で説明しています[4]。彼らによれば、前近代の「名誉文化」から近代の「尊厳文化」を経て、現代では「被害者文化」が台頭しました。そこでは人は、もはや他者と対等な人間としての尊厳を獲得しようとするのではなく、自分が他者から被害を受ける弱い立場にあると主張し、そのうえで加害者とされる人を一方的に糾弾し、自分が道徳的に優位に立とうとするというのです。キャンベルとマニングは、こうした被害者文化を(女性、黒人、LGBTQなどの)マイノリティの人々がマジョリティ社会を批判するさいにときおり見られる態度としていますが[5]、それだけでなく、被害者文化は白人男性のようなマジョリティ側にも伝染し、それによって彼らもまた、自分たちがマイノリティの人々が掲げるPC(ポリティカル・コレクトネス)によって攻撃され、虐げられているという被害者意識を高めていくことになります。アメリカにおけるトランプ大統領の誕生は、こうした白人男性の被害者文化が背景になっているとも言えます。こうして、皆が自分は犠牲者であると主張し、自分がいかに傷つけられたかを競い合うなかで、対等な立場での対話は失われ、社会の分断が進んでいくのです。
このような現状はそう簡単に変わらないと思いますし、変えるための方法を見つけるのも容易ではないでしょう。しかし、人々が互いに対等な人間として尊重し合うという「尊厳」の理念は、いかに時代が変わろうと無くなってはならないものであることは確かだと思います。
[1] チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』田中智彦訳、産業図書、2004年、pp. 63-64.
[2] 同、pp. 65-67.
[3] 山本圭『嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する』、光文社新書、2024年、pp. 152-159.
[4] Bradley Campbell / Jason Manning, The Rise of Victimhood Culture: Microaggressions, Safe Spaces, and the New Culture Wars, Palgrave Macmillan 2018.
[5] この点で、「被害者文化」という言葉は、マイノリティの人々の正当な抗議を貶め、黙らせるためのレッテルとして利用される危険もあることに留意すべきでしょう。ケイト・マン『ひれふせ、女たち ミソジニーの論理』小川芳範訳、慶應義塾大学出版会、2019年、pp. 293-327、参照。