深めて!南山GLS 学生の活躍 GLS教員リレーエッセイ
第35回 梅と木枯らし 「人間の尊厳」村杉 恵子先生
2025.02.26
「心理言語学」の分野に関わって半世紀ほどになる。この分野は理論言語学を基礎として、言語とはどのような仕組みをもち、それがなぜ、いつ、どのように獲得され、運用され、失われていくのかについて、理論的・実証的に研究する分野である。言語が人間の脳に生得的に与えられた種に特有の知識であるがゆえに、脳内に実在する言語野と言語以外の認知に関連する能力とのモジュール関係について考えることも心理言語学のテーマの一つとなる。
言語に関する誤解は多い。手話はジェスチャーであり、認知障碍のある人には言語にも不自由がある。自閉スペクトラム症も言語障碍であり、それは育て方の問題であるなどである。
しかし、手話はジェスチャーではない。人はすべからく、聾者の言語である手話と音声言語を母語にできるように生まれ、赤ちゃんは皆、手話と「あ、ば、ぶー」などの音声の両方を喃語として自然に発する。聾者はそのまま手話を母語とし、聴者は手話ではなく音声言語を母語とする。したがって手話と音声言語には共通する抽象的な(普遍)文法も存在する。また、短期記憶に障碍があっても言語野に障碍が生じていない人々はメモやレコーダーなどで記憶を補いながら生活することができる。記憶と言語の能力が独立したモジュールをなすからである。アルツハイマーと診断された老人も、文法能力に損傷がない場合が多いため、「ボケ」という語を含む文や文章に傷つく。また、自閉スペクトラム症は先天的なコミュニケーションに関する障碍であり、母親が障碍を引き起こしたのではない。自分のせいでこの子が自閉スペクトラム症となったと思いながら育てるのと、神様が自分だからこそ与えてくれた命だと考えて育てるのでは、天と地ほどの違いがあるだろう。
このようにことばの仕組みについて知ることは、人間の尊厳について考えるきっかけとなりうる。しかし、そのきっかけは、現実の日々の生活の中にちりばめられている。
「上」に諂い、のし上がり、嘘をついてまで自分のやり方、野望、勝手な計画を押し通し、自分の得る風景を喜ぶ。根強い男尊女卑、劣等感と嫉妬、歪んだ正義から、人を陥れる優越感に喜びを感ずる。こんな無明な環境の中で、深い傷を負った読者は少なくないだろう。
一方で、『塩狩峠』(三浦綾子)に知るような尊厳もある。2024年クリスマスを境に、私の義父母は永い夫婦一緒の生活から離れ、今、二人は別々の病院で100年ほどの人生に終止符を打とうとしている。その義父を見舞ったときのことである。寝たままの義父は、夫を見て「もう、いいよ」と言った。帰り際には私に手を差し伸べた。その冷えた手を、それよりは少し暖かい私の両手で包んだら、強く握りしめてくれた。目の周りは赤みが帯びはじめ、眠りに誘われるように目が閉じた。梅が咲いているのに木枯らしに落ち葉の舞う日だった。
この日の99歳の義父の「もう、いいよ」は何を意味したのだろうか。それは実父が92歳で亡くなる少し前に独りごちた「もうやめた。生きるの、やめた」を思い出させる。蝉がなき、実母が看病疲れで倒れた日だった。自己の命をあきらめても、家族を思いやる二人の父の最期の愛と崇高は、人間の尊厳への新たな気づきを与えてくれた、そんな気がしている。