南山大学 国際教養学部 Faculty of Global Liberal Studies

深めて!南山GLS 学生の活躍 GLS教員リレーエッセイ

第32回 「尊厳」という用語を使わなくても尊厳は実質的に擁護できるという主張について 「人間の尊厳」神崎 宣次先生

2024.10.01

尊厳は倫理学でも重要な用語で、9月の最後の週末に開催された日本倫理学会でも「尊厳概念の思想史的射程」というセッションが開催されました(余談ですが、セッション企画者の加藤泰史先生はかつて南山の教員だった方です)。そこで話題として取り上げられた論点の一つが尊厳概念不要論です。

たとえばルース・マクリーンという医療倫理の研究者は、'Dignity is a useless concept' [1] という直球のタイトルを持つ文章において、おおよそ次のような主張を行っています。人間の尊厳は世俗的な医療倫理の分野においては不要な概念である。なぜなら、その概念によって分析できる倫理問題は個人の自律の尊重などの一般的な医療倫理の原則があれば論じることができるため、人間の尊厳という明晰でない部分が残る概念を用いる必要はない、と。個人の自律や人格が尊重に値する価値を持つのは明白であるように思われます。それに対して、人間の尊厳がこれらには収まりきらない内容を含んでいると主張するのであれば、その「収まりきらない内容」を明らかにできなければならないでしょう。それができないのであれば、尊厳という概念でしか擁護できない重要な問題を示すこともできないので、尊厳概念は必要ないということになってしまいます。

意味がはっきりしないところのある概念をもっと明確で内容についての合意が得られやすい概念で置き換えて議論を改善する、というのは学問では基本的な作業です。ただ、この文章でマクリーンが不要としているのは医療倫理という限定された文脈においてのみであるのも確かです。それ以外の問題や文脈では人間の尊厳概念を削除しようとするのは、それほど容易ではないかもしれません。

たとえば世界人権宣言では冒頭で「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので...」と述べられています [2]。このような人権関連の文書においては、尊厳は基礎概念としての地位をしばしば占めており、そう簡単には他の概念で置き換えたり、削除したりできないように思えます。

ところで、この箇所では尊厳は権利と並べられていますが、尊厳と権利の関係はどうなっているのでしょうか。この二つの概念には深い関係があるように思われますが、正確に言えばどのような関係にあるのかについては議論があるようです。また人権宣言であるので、権利についてはその後の箇所でその内容が具体化されていきますが、尊厳については特に説明がありません。結局のところ、尊厳はどのような概念で、どこから来たのでしょうか。

南山大学のようなキリスト教の伝統と価値観の下にある場では、この問いに明確に答えることができます。たとえば「教皇庁教理省宣言 無限の尊厳――人間の尊厳について」[3] 等で、尊厳についての考え方を確認できます。それほど分量的に多くはなく、内容的にも興味深いので、できれば全体に目を通してもらいたいのですが、国際教養学に関心がある人は現代における具体的問題を扱った「四 人間の尊厳に対するいくつかの重大な侵害」の節だけでも読んでみてください。

このような特定の信仰を背景にした人間の尊厳の理解は、カントなどの特定の哲学を背景とした理解と並んで、人類にとって重要な知的資源の一つである一方で、国際教養学部のようにグローバルな問題や多様な文化に関心を持つ場では特定の理解だけを特別視すべきではないでしょう。この点で、冒頭で言及した加藤教授らによる研究プロジェクト [4] は欧米圏に限定されない尊厳概念の研究を目的に含んでおり、われわれにとって注目に値するものです。

表題の問いに戻りましょう。もし尊厳概念が多様なものであるなら、それを他の概念によって置き換えても実質的に問題がないと考えるのはそれだけ難しくなるように思われます。尊厳という概念によって擁護されると主張される対象も多様になる可能性があるからです。一例を挙げると、スイスの憲法では被造物の尊厳が扱われています [5]。尊厳概念の批判者たちはこうした多義性や対象の広がりを概念としての欠点とみなすでしょう。しかし重要なのは、必ずしも明晰でない概念を使ってでも擁護する必要があると人びとが現に考えている、さまざまな対象が存在している事実であるように思います。尊厳に関する議論は、この事実を確認することから始めるべきです。

[1] Ruth Macklin (2003). Dignity is a useless concept. BMJ. 2003 Dec 20; 327(7429): 1419-1420. doi: 10.1136/bmj.327.7429.1419

[2] 国連広報センター (不詳). 世界人権宣言テキスト. https://www.unic.or.jp/activities/humanrights/document/bill_of_rights/universal_declaration/

[3] カトリック中央協議会 (2024). 教皇庁教理省宣言 無限の尊厳――人間の尊厳について  Dichiarazione Dignitas infinita circa la dignità umana. https://www.cbcj.catholic.jp/2024/08/05/30436/

[4] 尊厳学の確立 (2023). https://songengaku.jp/group/index.html

[5] 山岡規雄 (2022). 諸外国の憲法における動物保護規定. 『外国の立法』. 国立国会図書館調査及び立法考査局. 293. 55-65. https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_12321390_po_02930003.pdf?contentNo=1

ページトップへ