南山大学 国際教養学部 Faculty of Global Liberal Studies

深めて!南山GLS 学生の活躍 GLS教員リレーエッセイ

第27回 無意識・無自覚に潜むもの 「人間の尊厳」 北村 雅則先生

2024.05.29

 南山大学が掲げる教育モットーである「Hominis Dignitati(人間の尊厳のために)」。このモットーに込められた意味と願いは深い。南山大学ホームページの建学の理念のページには「キリスト教では、人間は神に創造されたものとして侵すことのできない「尊厳」つまり人間としてのかけがえのない価値や権利を持っている、と教えられます*」とある。

「かけがえのない価値や権利」とは何か。これを正面から問うと答えに窮するが、「かけがえのない価値や権利」が損なわれている場面については想像しやすい。よくよく考えると、おかしなことではある。「かけがえのない価値や権利」について明確な答えを持ち合わせていないのに、「かけがえのない価値や権利」が侵されている場面や様子については答えられるのだ。ここに、我々の中にすり込まれている、無意識・無自覚性を見いだすことができる。

「かけがえのない価値や権利」が認められていない場面とは具体的にどういうものだろうか。想像しやすいところで言えば、戦争、差別、偏見、貧困などにまつわる場面、状況が挙げられる。しかし、「かけがえのない価値や権利」の側から見ると、それは表層的な一部分に過ぎない。ここに大きな隔たりがある。

話は変わるが、一つみなさんに聞いてみたいことがある。留学生や外国人と話す機会があった際、どの言葉で話そうとするだろうか。「英語は苦手だけど、英語かな」、「できれば留学生の第一言語で」、「日本語以外は自信がないから日本語で話したい」などの回答が出てくることを想像する。そういった回答の中で、一番無難そうなのは「英語で話す」である。

しかし、それで良いのか。もちろん、「良い」という回答も想像しうるが、あえて問いたい。

今までにこういう場面に遭遇したことが何度もある。ある日本人が、留学生と日本語で会話しているとき、「今から話すことは少し難しい内容だから英語で話すね」とばかりに日本語から英語に急にスイッチした。その留学生は、英語も堪能であるが、実のところ日本語もかなりできる。それなのに、ここからは「英語」なのである。言葉の機能といえば、何かを伝達することを思いつきやすいが、同じ言葉を使うことによって、話者同士に連帯感を醸し出すという効果もある。日本語から急に英語に変わっても、その留学生は態度を変えず対応していたが、実際のところどう感じただろうか。

日本人側の意識としては、留学生だからという理由で、「あなたの日本語力では今から話す内容に困るだろうから、わたしがわかりやすく英語を使ってあげるね」という、ある種の配慮があるのだろう。しかし、留学生側から見れば、その「英語を使ってあげる」という行為(厚意?)に無自覚な意識が隠れていることを、意識的に感じさせられる。

これはマイクロアグレッション(自覚なき差別)と呼ばれるものに当たる。英語を使った本人は、良かれと思って英語を使っているが、それは、留学生の日本語能力に対する軽視や、日本語のコミュニティーからの阻害を含みうる行為だ。つまり、意図せず、人間の尊厳を踏みにじる行為につながるものなのだ。そう考えると、無意識・無自覚は罪深いものである。

我々人間は、間違いを犯す生き物である。一度間違いを犯したからといって、それですべてを否定するというのも、批判されてしかるべき話だ。この文脈においてできることと言えば、自分の言葉、考えをただただ自省し、失敗に気づいたとしたらそれを次に向けて改善することである。

これもよく目にする光景だが、日本語を研究する私に対し、「日本人が日本語を研究する意味はどこにあるんですか」という質問が投げかけられることがある。何の意図もない無邪気な質問だとも思う一方で、穿った見方をすれば、日本人が日本語を今更研究する意味などないという本音の現れでもあると思う(※質問者や質問の意図に対して否定的な意見を述べるつもりはない)。

日本語を母語とする人間にとって、日本語とは無意識の産物でもある。外国語を操ることより遙かにたやすく、自分の手の内にあることを疑わない存在である。それをあえて研究対象にするということは、無意識を意識化する作業ということにほかならない。こうした作業は、一見役に立ちそうもないが、思考としては大いなる汎用性を備えている。

 「かけがえのない価値や権利」に話を戻そう。「かけがえのない価値や権利」とは何かという問いにはっきりした正解はない。各々が答えを考え続けるしかない。それとともに、導いた答えを当然視せず、それを問い続けることこそが「人間の尊厳のために」できる、小さくとも大きな一歩なのではないか。人間の尊厳のために、ボランティア活動に励んだり、国際的な貢献をしたりすることは素晴らしく、理想的なことである。しかし、「人間の尊厳のために」の一歩目は「当然視せず、批判的に考えること」でありたい。これならば誰でも実践できる。自分自身への戒めとしても、それを肝に銘じたいと思う今日この頃である。

*https://www.nanzan-u.ac.jp/Menu/rinen/

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