南山大学 国際教養学部 Faculty of Global Liberal Studies

深めて!南山GLS 学生の活躍 GLS教員リレーエッセイ

第23回 教員リレーエッセイ 南 祐三先生

2023.06.12

グレーゾーン

南 祐三

 コトちゃんは中途半端が嫌いらしい。私や妻の使用後、トイレのドアが閉まり切っていないのを発見すると、リビングで遊んでいても、わざわざ「カチャッ」と音がするまで閉めに来る。閉じているとも、開いているともいえるドアの状態が気に入らないのだろう。コトちゃんというのは私の双子の娘の妹のほうで、210か月である。どうやら、少なからず私に似て「きっちりしい」(関西弁)のようだ。最初の兆候は「もじゃもじゃ」であった。コトちゃんがたまにそう言うのである。はじめは何のことかわからなかったが、そのうち「肌着がちゃんとズボンの中に入っていない状態」や「オムツのゴムが腰の位置からずれてしまっている状態」の気持ち悪さを訴えているらしいことが判明した(今のところ姉のイノちゃんにはそうした傾向はみられない)。とにかくコトちゃんは、だらしなさや中途半端を嫌がる。

 しかし(話は飛躍するようだけど)、世の中は中途半端や判別がつかない曖昧さで溢れかえっている。大学生は「子ども」なのか、「大人」なのか。日本家屋の縁側は「内」なのか、「外」なのか。帯に短し襷に長し。「友達以上、恋人未満」なんて言葉もある。現在進行形で信頼性や合理的な適切さが求められる場においては、そうした中途半端や曖昧な位置づけはしばしば疑問視される。首相夫人は「公人」なのか、「私人」なのか。総務省が作成した文書は「捏造」なのか、「本物」なのか。こうした問題ではどっちつかずの状態は許されず、白黒はっきりさせた明快な回答が強く求められる。それが信頼性の確保や、政治的責任なるものに直結するからである。

 一方、過去形の人間の営みを分析する歴史研究に取り組んでいると、やはり白黒つけられない事象や状況にしばしば遭遇する。私の研究テーマである「第二次世界大戦期におけるドイツ軍占領下のフランス」はまさにそうした対象である。そこにはナチ・ドイツへの「協力者」と「抵抗者」が存在したが、同時に、その「どちらでもない人たち」、あるいは「どちらともみなしうる人たち」も存在した。ところがかつて、このテーマについての歴史研究は、「協力者/抵抗者」「敵/味方」「加害者/被害者」といった二項対立に立脚して当時のフランスが置かれた状況を説明することに満足し、ひどい場合には「どちらでもない(ある)人たち」を無理やりどちらかに分類してしまうことで、その時代を「理解した」ことにしていた。しかし、こうした二分法に基づく説明は、歴史理解の単純化でしかない。人間の選択や行動は、実際にはじつに複雑で、きわめて矛盾に満ちたものである。白黒はっきりしている部分を説明しただけでは、その時代や状況の全体像を把握したことにはならない。さらに言えば、これまで白黒はっきりしていると信じられてきた対象も、複層的な要素を加味しつつ相対化して分析を深めれば、実際にはその境界線はかなり曖昧であることがみえてくる。「グレーゾーン」というべき領域が、そこにはある。

 この「グレーゾーン(灰色の領域)」という概念を核として、第二次世界大戦期に日本の占領下に置かれた地域とナチ・ドイツの勢力圏に生じた複雑な政治空間の実像を捉えなおそうする共同研究の成果がこのほど上梓された。髙綱博文・門間卓也・関智英編『グレーゾーンと帝国 歴史修正主義を乗り越える生の営み』(勉誠社、2023年)である(写真)。この研究プロジェクトの研究会にゲスト参加したこともあり、私も本書にコラムを寄稿している。「反ドイツ的ナショナリスト」でありながら、「敵(ナチ)との内通」罪で裁かれ、「対独協力者(コラボ)」を象徴する一人として現代まで記憶されているシャルル・モラスという人物についての論稿である。

【画像】グレーゾーンと帝国9784585320272_600.jpg

 強調したいのは、人間の営みや社会の実態を学問的に理解するためには、人びとの行動や複合的な関係性にみられる曖昧さや両義的な領域というものを、性急に単純化すべきでないということである。安易な単純化を避けつつ、その空間を成り立たせているメカニズムを全体として理解しようとすることが重要である。複雑なものを複雑なまま理解しようとすること、と言い換えてもよい。複雑さを構成する要素の一つ一つを丹念に解きほぐそうとしながら、同時にその複雑さゆえに生じている事態を見落とさないこと。ところが、現代人はこれがとても苦手なのではないか。複雑なものにすぐにレッテルを張ることで単純化し、自分が理解可能な対象に矮小化することで「わかった」気になる。しかし実際には、そのように解決を急ぐと、逆に真の実態が見えにくくなってしまうこともあるのだ。物事の単純化は、思考停止をも意味するからである。

 誤解があるといけないので附言しておくと、単純化と明確化は異なる。首相夫人や行政文書の例でいえば、民主的で健全な政治社会の基盤にあるべき適正さや公正さ、合理的な判断を示すために、「公人」か「私人」か、「捏造」か「本物」か、といった曖昧な状況を明確化することは当然必要である。ここでは、のらりくらりと追及をかわす術としてグレーな解釈や矛盾する答弁がまかり通ってしまっているが、むろんそれらを明確化し、論理的で正しい政治判断がなされるべきである。グレーゾーンにはそれなりの意味があるのだから、二項対立の単純化を迫るような追及をすべきでないと言いたいのではもちろんない。

 さて、問題はコトちゃんである。彼女は最近、網戸も嫌がり始めた。妻や私は、暑くなってきたし、空気を入れ替えるためにもリビングや寝室の窓を網戸にしておこうとするのだけど、コトちゃんは網戸というグレーゾーンが気に入らないらしく、ガラス戸を閉めてしまう。暑い。家はマンションの3階で、せっかくいい風が入るし、エアコンをつけるにはまだ早い。曖昧な領域は、それを利用して政治を私物化したり、保身を図ろうとする政治家には十分に気をつけねばならないが、縁側や網戸のように生活の知恵として暮らしを快適にしてくれる有益な発明品である場合もあるのだよ、コトちゃん。どうか網戸を認めてはいただけないでしょうか。

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