深めて!南山GLS 学生の活躍 GLS教員リレーエッセイ
第16回 教員リレーエッセイ 篭橋 一輝先生
2022.11.02
ランダムな遭遇
篭橋一輝
2022年8月上旬から一ヶ月ほど、オーストラリアに調査に出かけた。気づけば2年半ぶりの海外出張である。前回の海外出張は2020年2月頃で、ちょうど新型コロナウィルスが世間で騒がれ始めた頃だった。イギリスのケンブリッジ大学を訪れたときに、大学近くの広場の一角で、写真と花束がひっそりと置かれていた。それは武漢で原因不明の肺炎が広がっていることを最初に告発し、自身もコロナに感染して亡くなった中国人医師の李文亮氏を追悼するものだった。そのときはまさかここまでの世界的な流行になるとは予想もしていなかった。「パンデミック」という言葉はどこか非現実的で、黒死病やインフルエンザの大流行という歴史上の出来事、あるいはSFの世界での作り話のような響きしかなかった。対岸の火事、とどこかでたかをくくっている自分がいた。しかし現実はあまりに無情なものだった。
あれから2年の間、海外旅行はおろか、国内出張にもすっかり出かけなくなった。友人との飲み会や、大学内の会合も無くなった。だれかと何かをする、という機会は激減し、新たな人脈をつくったり、ネットワークを広げたりする活動も滞りがちになった。しかし幸いに、私はあまりストレスを感じることはなかった。家族との時間をゆっくり持つことは何より楽しかったし、外出せずに家でじっとしていることも苦にならなかったからである。
それでも、この2年半を振り返って、異なる価値観を持った人との出会いが少なくなったことは大きな損失だったように感じる。コロナは何も外出を阻害するというだけではない。他者との出会いと遭遇を無くしてしまったのである。最近は会社の飲み会はメンドクサイからパスする、という若い世代もいるようだが、飲み会というのは普段会話をしないような人との「ランダムな遭遇」をもたらすものでもある。最近、私はこの「ランダムな遭遇」がかなり重要だと思っている。
私自身を内省すると、基本的に面倒くさがりである。気分が乗らないな、やりたくないな、ということを先送りにしがちである。そのような人間は、基本的に自分がやりたいと思うことしかしない。人付き合いも、気の合う仲間とつるむことが多い。だから、何も求められなければ、自分の活動範囲内で居心地の良いポイントを探して落ち着いてしまうのである。もし私が牛に生まれていたら、自分の居心地の良い牧場の隅っこで、数頭の仲間と一緒に黙々と草を食んでいたに違いない。
このような人間(牛)に必要なのは、異質な他者との出会い、しかもある程度の強制力を伴った「遭遇」である。自分が全ての選択権を持ち、自分の好みに従って選択することができるなら、異質な他者との遭遇を避けるだろう。変化が否応なく求められるからである。居心地の良い空間は、変化を徹底的に嫌う。ナシーム・ニコラス・タレブはそのような状況を「脆い」と表現した1が、自分の居心地の良い場所にずっととどまっている人間(牛)はまさに脆いのである。
ランダムな遭遇が、人を成長させる。自分の予想した出会いではなく、予想外の遭遇が必要である。その遭遇は、小さなストレスでなければならない(牛にとっての牧羊犬など----決して猟銃で撃たれてはいけない)。自分の居心地の良いところにずっと留まっていれば、成長は生まれない。かと言って、居心地が悪くなり過ぎてもいけない。居心地の悪い空間での苦行は長続きしないからである(つくづく人間は厄介だ)。
ほどよくはみ出すことが大切である。そのようなはみ出しは、自分から求めて生まれるものではない。他者との遭遇、他者からの働きかけを受けて、「はみ出してしまう」ものである。それは草を食み続ける牛にとっては一種の苦痛かもしれないが、はみ出して、考える。その繰り返しが重要なのである。そのはみ出しは、「ランダムな遭遇」からしか生まれない。
このようなことを最近、ぼんやりと考えるようになった。思い返せば、自分にとってのオーストラリアは「ランダムな遭遇」の一つの結果である。オーストラリアでは、「ランドケア(Landcare)」と呼ばれる地域住民を主体にした自律的な地域環境マネジメントが1980年代から行われている2。そのランドケアについて知り、オーストラリアに行くようになり、数多くのランドケア関係者と知己になり、自分の研究テーマの一つとして調査をするようになったのも、南山大学社会倫理研究所で故マイケル・シーゲル氏に遭遇した(と感謝を込めてあえて言おう)からである。彼の存在によって、私は自分の慣れ親しんだ学問領域から何度も弾き出され、はみ出すことを余儀なくされた。多くの国内外のワークショップを企画・運営し(時に私一人でオーストラリアからの使節団の通訳をする羽目にもなったが)、オーストラリアに何度も一緒に連れ立っていった。こうしたことは、絶対に自分一人の力だけでできるものではない。私はただ流れに身を任せて、「はみ出してしまった」だけである。しかし、それがいかに自分にとって重要なことだったか、そしてマイケル・シーゲル氏のような存在に「遭遇した」ことがいかに幸運なことだったかを身に沁みて感じている。
話は戻って、2年半ぶりの海外出張となったオーストラリアでの20日間に及ぶ調査は実り多いものだった。その終盤で、ランドケアに関する書籍の出版記念パーティに出席した。これはシーゲル氏と私が企画し、社会倫理研究所の主催で2017年に開催したランドケア国際会議(The 1st International Conference of Landcare Studies 2017)の成果物として、Australian Centre for International Agricultural Researchから出版された本3で、イベントには多くの友人や仲間が集った。この本には私も論文を寄稿するとともに、Prefaceを執筆するという栄誉に浴した。このような今の自分を、10年前の自分は予想できただろうか。シーゲル氏との出会いは、私にとってまぎれもない「ランダムな遭遇」そのものだった。
写真:Building Global Sustainability Through Local Self-reliance: Lessons from Landcareの出版記念イベント(2022年8月22日、シドニー市内のSappho Books, Café & Barにて、筆者は写真の左から5番目)
脚注
1 ナシーム・ニコラス・タレブ(望月衛監修、千葉敏生訳)『反脆弱性――不確実な世界を生き延びる唯一の考え方』ダイヤモンド社、2017年。
2 篭橋一輝(2015)「環境と経済の両立に向けたランドケア・アプローチの可能性」『社会と倫理』第30号、pp. 1-18。
http://rci.nanzan-u.ac.jp/ISE/ja/publication/se30/30-03kagohashi.pdf
3 Dale, A.P., Curnow, J., Campbell, C.A. and Seigel, M. (2022). Building Global Sustainability through Local Self-reliance: Lessons from Landcare. ACIAR Monograph No. 219. Canberra: Australian Centre for International Agricultural Research.
https://www.aciar.gov.au/publication/lessons-global-landcare