深めて!南山GLS 学生の活躍 GLS教員リレーエッセイ
第14回 教員リレーエッセイ 村杉 恵子先生
2022.07.14
無明
村杉恵子
エッセイに限らず、言語がなんであろうとも、書き物は読者層に応じて多様なものとなる。読者が誰かによって、書き方も異なり、また同じテクストでも解釈は異なる。このエッセイの読者は、学生なのであろうか。あるいは職員なのだろうか。ネットに掲載されるという性質にも鑑み、それぞれの読者のスキーマで読んでいただけるように、この数日の中で経験したことをしたためてみたい。
日曜日。私は信州にいた。午前中、近所の農協まで歩き、採れたての杏、薄紫色のトルコ桔梗とかすみ草を買った。母の家に歩いて戻り、花を花瓶に生け、杏ジャムを作った。母の方言(伊那方言)の調査をしてから、午後3時名古屋に向かう列車に乗った。いつものようにブランケットを借りて座る窓には、姨捨山から善光寺平までの盆地が広がっていた。目が覚めると東山魁夷が描いたかのような木曽路が、うっすらと夕闇に包まれていた。山裾は薄橙色に光っていた。日の暮れたバス停には夫が迎えにきてくれており、一緒に坂を上って着いた自宅には、朝5時から夜9時までの連日の勤務に疲れ切った研修医の娘が、遠くから帰り眠っていた。
月曜日。早朝、久しぶりに家族に弁当を作った。ウナ玉に、ごぼうと人参とアスパラガスを豚肉で巻いて...娘と夫の好きな弁当を作ってから、大学に行き、書類や授業、留学予定の学生3人とのアポイントメント。わくわくするような気持に触れていた。
火曜日。朝、大学に行き、データ整理や書類作成をしてから、友人と昼食を共にした。友人は「無明」について話し始めた。無明ではないとは悟りに至った状態で、無明であるというのは、あらゆるものが空である実態に気づかない状態であるという。人は好きとか嫌いとか歪んだフィルターを通して物を見がちであるが、その実態(真実)は、実はラベルのないものである。人は、無明(真理を知らない状態)にあるとき、自らの欲望(煩悩)によって、苦しむ。無明の状態から脱するためにはどうしたらいいのか。瞑想するのだという。そこには阿弥陀如来も救い主もいない。自分の行動のひとつひとつを確かめるように自分を客観的に意識して瞑想する。その修行の果てに悟りが開かれるのだというのである。絶対に悪いことも、絶対に善いものもない。悪いと思われることも、振り返ればそれは良かったことかもしれないし、善いと思われることも、それは悪いことかもしれない。そして授業を終えて帰る道すがら、近所のお寺の横を通ると、陽に焼けた短冊に言葉があった。「他人のために時間と財を使う。」「よりよく生きる」。
これは、ほんの三日を記述しただけの拙いエッセイである。自分の置かれた三日間を意識することは、小さな自分に、無明ではない状態にほんの少し近づく機会が与えられたということなのであろうか。
あちこちに「国際性」という言葉がきらめいている。国際性とは、遠いどこかの国の在り様を考えることではない。人は人だからこそ共通する能力を持って生まれ、時に煩悩ゆえに執着し、仮想の苦しみに四苦八苦し、いつか死を迎える。「国際性」とは「敵」を作る自らの無明に気づくことに始まるのかもしれない。