深めて!南山GLS 学生の活躍 GLS教員リレーエッセイ
第8回 GLS教員リレーエッセイ 中村 督先生
2021.12.20
『気づきをえた。あらためて。』
中村 督
こんな感じの言葉を使うまいとしていましたが、ついに使うときがきました。「気づきをえた」。もちろん、「気づきました」でいいわけです。けれど、不意に使ってみたいという気がして、タイトルにそうつけました。それでもう私は十分に満たされましたので、あとは余滴のごとしです。
すでに二年近く経ちました。状況が状況です。それで、これまでなら考えなかったことを考えるようになりました。いや、実際のところ、とくになにかを深く考えているわけでもないのに、考えなければならない気がして、そういうふりをしているうちに、多少なりとも思うところが出てきたということです。行動が変われば思考が変わる。
ここでその思考の結果を披露したいのですが、一瞬、躊躇しました。というのも、気づいたということは、それを聞く側(読む側)にとってはすでに気づいていたということが多々あるからです。「○○君も結婚したらわかると思うけれど・・・」のような内容が典型的で、こういうことをいわれると「いやいや、あなたは結婚してはじめてわかったかもしれないが、オレはすでに気づいていた。なんなら中学あたりで。そもそも理解のペースを一緒にしてくれるな」と思うことがあるわけです。
さらにです。実際に経験しなくてもわかる(ような気がする)という感覚を人は想像力と呼び、それこそ大学で培ってほしいと思う力の一つですが、しかし、そうだとすれば、行き交う人が皆マスクをし、几帳面に消毒し、街の人はまばらで、新幹線が貸し切り車両みたいになった状況をみてはじめて気づいたというのは、私自身、想像力を欠いていたということです。つまり、気づいたことの報告は、学生の皆さんに求める能力をほかならぬ私が欠いていたということの告白を意味します。この辺りはいつも大上段に構えているだけに格好がつかないですが認めざるをえません。
ここは、適切な解決策にはなっていませんが「気づきをえた」から「あらためて気づきをえた」くらいに変換しておいてください。また、私自身、経験をしないとわからないことが多い未熟者だということもたしかです。以下、思考の結果を三点お伝えします。
一つ目、すべてのビールが美味い。それまで私はいつも買う銘柄が決まっており、迷うことなどありませんでした。レモンを前にすると唾液が出るように、ビル・エヴァンスを聴くと執筆モードになるように、ジャン=ポール・ベルモンドをみるとタバコが吸いたくなるように、日が暮れるとビールが飲みたくなります。そこで条件反射的に想像されるビールはいつも同じものでした。しかし、家で飲む日が続くうちに、ちがう銘柄も試してみようとなりました。日本のビールはもちろん、輸入されたビール、それから発泡酒(ビールではないという意見は措いておきます)も飲みました。
フランスのことを研究していると、「えっ、ワイン派じゃないの?」といわれることがありますが、べつに二者択一の世界を生きているわけでもありません。ワインかビールか、コーヒーか紅茶か、きのこの山かたけのこの里か、ビートルズかローリング・ストーンズか。両方好きということもよくあるわけです、ビールのあとにワインとかね。二択は阪神か巨人かくらいかで十分です(うそです、すみません。ヤクルトファンの方、おめでとうございます。オリックスファンの方、いい試合を楽しませていただきました、来年は畿内対決がみたいです)。
ともあれ、大型スーパーでさまざまなビールを買って飲んで得られた結論は、すべてのビールは美味いというものです。最初から最後まで、例外なく。酒類提供禁止空けには近所の台湾料理屋で生ビールも飲みました。美味しいでしょ、と店員にいわれる程度にはそういう表情をしていたのだと思います。
二つ目、喧騒は必要。そういうと大げさですが、人が集まることの重要性はあらためて強調されてよいと思いました。うるさいのが平気かといえば、そうでもないので矛盾もいいところです。騒がしいのは避けたいけれど人が多いのは好きという、自己中心的なものです。思えば、祇園祭も学園祭も、スタジアムやコンサートホールの賑わいもかけがえのない瞬間であった気がします。
Q棟入り口の普段ないはずの場所に雑草があるのをみると、学生の不在に気づき、ただちに状況の厳しさが連想されました。大変寂しいことです。それだけにゼミの時間はありがたかったし、部活帰りの学生がマスクをせずに大声を出して歩く姿ですらほほ笑ましく感じられました(しかし、しっかりしてください)。その意味で、キャンパスに学生が戻ってきたことに安心感を抱きます。1968年のフランスで起きた学生運動の標語の一つは「想像力に権力を」ですが、いまや「学生にキャンパスを」ですね。こんな当然のことをいわないといけないなんて。
三つ目、翻訳はいい。翻訳ですよ、翻訳。翻訳については、複数の態度があります。(専門に近い)翻訳書を読むと研究者としての視線が出てきます、「うーん、資料調査があまいのでは」。私自身も翻訳をするので−−細々とでもライフワークにしたいので−−、訳者の視線もあります、「ちょっとちがうんじゃない」。それに教員の端くれとしての態度もある、「これは授業で紹介できそう」。
こうした複数の態度は純粋な読書の愉しみを損うものではないかとなりますが、心配は不要です。いち読者としての態度があるからです。どんな翻訳も最高です。また、原書を読めるなら翻訳は不要という意見もあるかもしれません。けれど、私は、自分の愚鈍さのせいもあって、訳書を読んではじめてわかるということは少なくありません。ビールがそうであるように、すべての翻訳書がいいと思っています。
ここ二年ほどでいうと、ランボー『対訳ランボー詩集』(中地義和訳、岩波文庫、2020年)やプルースト『失われた時を求めて14』(吉川一義訳、岩波文庫、2019年)といった文学作品は堪能しましたし、より専門にひきつけてみても、アラン・パジェス『ドレフュス事件』(吉田典子・高橋愛訳、法政大学出版局、2021年)、ミシェル・ヴィノック『シャルル・ド・ゴール』(大嶋厚訳、作品社、2021年)、ピエール・ビルンボーム『ヴィシーの教訓』(大嶋厚訳、吉田書店、2021年)などは寝不足を誘発する危険な読書となりました。ミシェル・レキュルール『レーモン・クノー伝』(久保昭博・中島万紀子訳、水声社、2019年)も本当に面白かった。そうしたことは昨今の状況とまったく関係ないじゃないかという突っ込みが入りそうですが、そんなことはなく、翻訳を通じて普段と変わらない日常が続くことの大事さにあらためて気づきました。
こうしてみると、習慣を揺さぶられることは、その重要性の再確認も含めて、奇貨としたいところです。そういう「気づきをえた」わけです。最後に、冒頭とはちがって、一度使ってみたいが使う場面のなかった言葉を想起して終えさせていただきます−−「習慣。−−すべての習慣は、われわれの手を機知的なものにし、われわれの機知をば不手際なものにする」(ニーチェ『ニーチェ全集8−−悦ばしき知識』信太正三訳、ちくま学芸文庫、1993年、276頁)。