教員エッセイ
「壁の中の天使」2023.2.14 加藤隆雄
2023.02.14
上野の東京都美術館でフェルメールの「手紙を読む女」(1658頃)を観た。塗りつぶされて壁になっていた部分から天使の絵を修復したと話題になっている絵だ。
5年ほど前にドイツ訪問した際に、この絵を見損ねていた。ドイツ東部の都市ドレスデンは、戦前の姿に修復されたものだとはいえ美しい街であるが、重厚なアルテ・マイスター美術館もその一部である。当の「手紙を読む女」はこの美術館に収蔵されている、はずであった。しかし、この美術館のもう一枚のフェルメール画「女手配師」は見ることができたものの、「手紙」の方は見つけることができなかった。思えばこの時、「手紙」は修復の真最中だったのだ。
奇跡的ともいえる修復によって、フェルメールがもともと描いていながら後世の何者かの手によって壁の中に塗り込められた天使の絵が完璧に復元された。修復は絵全体に及び、特に左下のテーブルクロスの模様も息をのむような鮮やかさでよみがえった。
なぜこの天使の画中画は塗りつぶされたのだろうか。科学的解析によって、フェルメールの死後になされたことは明らかになっているので、フェルメール自身の手によるものではない。そうしたことがなぜ許されたのか、と人は思うであろう。
まず、フェルメールは近年に至るまで無名の画家であった。この絵が近年までレンブラント作とみなされていた事実からもその扱いがわかる。無名の画家の絵をレンブラント風に見せようとした何者かによって、天使絵が塗りつぶされたというのが、専門家の大方の意見のようである。ただ、これによってレンブラント風になったかといえば、あの強烈な影と光の対比がレンブラントだと思っている鑑賞者としては、少し方向性が違うのではないかと首をかしげざるをえない。
そして、タブーともいえる問題が現われる。すなわち、復元によってフェルメールのこの絵は、評価をどう変えるのか。二つの絵を比べたとき、寡黙だった絵が、天使の絵により手紙を読む娘を吞み込んでしまったように思える。女性の頭部(特に髪)が絵に重なって見づらくなっただけでなく、静謐な絵が余計な闖入者によってひどく落ち着きのないものになってしまったようにさえ思える。事情を知らない人が二つの絵を見たら、フェルメールの名画に誰かが天使の絵のいたずら描きをしたと見えるかもしれない(その場合修復された絵は修復前の絵だと思われるかしれない)。名画が失われた、とさえ思う人がいるかもしれない。
アルテ・マイスターの学芸員も苦渋の決断だったのではないか、と想像したくなる。もし、モナリザの謎の微笑みが後世の誰かによって書き加えられたものだったとしたら、ということを考えてみればいいと思う。
しかし、フェルメールが描いた絵はこれだった。黙したまま手紙を読む娘の背景に騒々しい天使を描いたのだった。実際、フェルメールは、いろいろなものを背景に描きこんで、余分な夾雑を感じさせる絵画も多い(例えば「手紙を読む青衣の女性」「天秤を持つ女」「手紙を書く女性と召使」「ヴァージナルの前に立つ女性」)。他方、「牛乳を注ぐ女」や「真珠のネックレスを持つ少女」「レースを編む女」などでは、背景を白の無地にして人物を際立たせている。有名な「真珠の耳飾りの少女」も背景は壁ではないが、黒く塗りこめられている。「手紙」は後者の絵画グループとして位置づけられていたといえる。そして、これは描いた年代を調べると、決して前期から後期への変化というものではないのだ(「牛乳」は「手紙」とほぼ同年である)。
本来の天使絵のある「手紙」という絵は、ではいったいどのような絵だったのか。フェルメールの画風は前世紀の寓意画の伝統を含み持つものだった(例えば「信仰の寓意」が題名からしてまさにそのものである...そして最後期の絵である)。展覧会の解説では、天使とは、手紙を読む娘の内面または手紙の内容の寓意であると解釈されている。「真実の愛」が手紙の内容であり、天使の絵は、娘の内面を表わすいわば「(マンガの)吹き出し」なのである。
すると、次のような疑問が浮かぶのではないか。手紙の内容をわざわざ注釈せずとも、物言わぬ壁によって観る者に想像させる方がいいのではないか。観客が手紙を読む女の表情から真実を読み取ればいいのではないか、娘の内面をあえて画上に示すことは、見ている者の興をそぐのではないか。
これが19世紀以降の近代人の見方なのである。つまり、近代にいたって私秘性を高めた人たちは、内面を自己だけのもの、他者が勝手に覗き見るべきではないものと考えている(ちなみに「手紙」の手前にあるカーテンが、手紙を読む女の内面を覗き込もうとしている鑑賞者の位置を示している)。したがって、私的な手紙を懸命に読む娘の緘黙と沈黙する壁に近代人は感動したのであった。しかし、それはフェルメールがこの絵で描いたことではなかったのである。フェルメールは、17世紀と近代の間で揺れているのである。
ミシェル・フーコーが『言葉と物』の冒頭で詳細に分析し、人間が人間を対象とするようになる思考論理の組み換えのプロトタイプを見出した、ベラスケスの『侍女たち(ラス・メニーナス)』。そのような組み換えの明白な痕跡が、フェルメールのこの「二枚の絵」の間に見て取ることができると思われる。