教員コラム 経営学専攻
プロスペクト理論と損失回避(と麻雀)(経営学 後藤 剛史 准教授)
2024年07月16日
行動経済学がある種のブームとなってから数年が経ちましたが,この学問分野に対するニーズには衰えがありません.私自身は行動経済学の素人ですが,経営学部所属の経済学担当教員として,経営学部の学生たちの「行動経済学を学びたい」というニーズに応えるべく,行動経済学に関する書籍や新聞・雑誌の記事などに接してきました.今回のコラムでは,そういった文章で必ず取り上げられる「プロスペクト理論と損失回避」について,思うところを述べたいと思います.
近年,企業の価格戦略の一環として,ダイナミック・プライシングというものが行われるようになってきました.要は,需要に応じて価格を上げ下げしましょうというものなのですが(注1),これについて,ある新聞記事が次のように述べていました:「ダイナミック・プライシングのもとで高い価格を支払わされた顧客は,同じものが安く売られているのを目にしたとき,不満を持つだろう.行動経済学のプロスペクト理論によると,人々は損失することを非常に嫌う(損失回避).ダイナミック・プライシングの導入の際には,顧客の不興を買うことのないよう,気をつけなくてはならない」.顧客にとって,代金の支払いはコストで,それを嫌うのは当然のことです.誰だって,何かを手にするのにいくらも払う必要がなければ,それがいちばん望ましい(注2).私には,何も「行動経済学のプロスペクト理論」などを持ち出す必要はないように思われます(注3).
「行動経済学のプロスペクト理論」は,たいてい,図1のような図とともに紹介されています(当該記事にも添えられていました).
この図からは,次のようなことが読み取れます:①人々は,gain(利益)を得るとutility(効用)が増え,loss(損失)を得ると効用が減る,②効用の増え方や減り方は逓減していく(gainを得れば得るほど1単位のgainがもたらす効用の増加分は小さくなっていき,lossを得れば得るほど,1単位のlossがもたらす効用の減少分は小さくなっていく),③100のlossがもたらす効用の減少(ABの長さ)は100のgainがもたらす効用の増加(CDの長さ)より大きい.先の記事の「損失回避」は,③のことを言っているのですが,例えば,③だけなら,図2のような場合にも言えるのです.損失回避のことだけを問題にしているのに図1のような図を添えたのでは,「ダイナミック・プライシングを人々が嫌がることを説明するためには,gainのグラフが上に凸で,lossのグラフが下に凸でないといけない」という読者の誤解を招きかねません.
「gainのグラフが上に凸で,lossのグラフが下に凸」という性質②は,人々の「gainを得るときには確実に得ようとし,lossをこうむるときは一か八かにかけるようになる」傾向を説明するためのもので,これこそが,プロスペクト理論の肝です.唐突に麻雀の話で恐縮ですが,麻雀で,タンピンドラドラをテンパイしたとき,ダマテンにする人は多いのではないでしょうか.「リーチをかければ一発も裏ドラもあるから点数は増えるかもしれないが上がれない可能性もある.満貫なんだからダマテンで確実に...」というわけです(注4).いっぽうで,他家がいずれもテンパイしていそうな終盤の局面で,ノーテン罰符を払いたくないばかりに危険牌を捨てる人も多いです.「国際安全牌を捨てれば放銃は免れるがノーテン罰符を(確実に)払う羽目になる.それだったら,危険牌を捨ててでもテンパイを維持したほうがいいのではないか.なぜって,その牌が確実にアタリってことはないのだから」というわけなのでしょう(注5).
上記②の性質をきちんと理解するためには,伝統的なミクロ経済学の教科書の「危険に対する個人の態度」のところを理解しておく必要があるのですが,行動経済学に興味を持つ学生に,そのあたりの理解が足りないことが往々にしてあります(注6).そこで...というわけでもないのですが,本学経営学部では,2024年の新カリキュラムから,1年生全員に「ミクロ経済学」を履修してもらうことにしました.今後ますます,社会人には行動経済学の知見をきちんと理解しておくことが求められると思います(注7).そのためにも,一教員としてしっかり準備し,学生の理解を手助けしていこうと思っています.
(注1)ホテルの客室の料金が「繁忙期には30,000円,閑散期には8,000円」となったりすることがその一例です.
(注2)実際には,世の中に「無料」のものなどほとんど存在しないのですが,ここではその話に深入りしないことにします.一言だけ述べておくと,「無料じゃないものを無料と言われて無料と思い込む」個人の存在は,行動経済学の「フレーミング効果」に関連するものと思われます.
(注3)この例は,私にはむしろ,「社会的選好を持つ個人」(自分の得たgain-lossと他人の得たgain-lossを比較する個人)についてのものであるようにも思われます.
(注4)しかし,同じ人がピンフのみをリーチしたりします.矛盾も甚だしいですが,行動経済学では「人々は矛盾を抱える存在」なので,こういった現象もアリなのでしょう(そもそも麻雀という不確実な遊びを行なっている個人にリスク回避的な傾向があるという現象自体も面白いですが).また,「ダマテンにすれば確実にアガれる」というのも錯覚で,リーチをかけたほうがアガリの確率が上がる局面もあるはずです.
(注5)麻雀は「行動経済学あるある」ネタの宝庫です.そのうち,麻雀と行動経済学を結びつけた書籍が出るのではないかと,個人的に心待ちにしています.
(注6)行動経済学の人気の理由の一つは,上の麻雀の例のような「あるある話」がよく出てくるからだと思われますが,伝統的なミクロ経済学こそ「価格が上がれば需要は減る」という「あるある話」でいっぱいなのに,こちらはなぜか人気がありません.伝統的な経済学との接続がよく考えられている行動経済学のテキストとして,Lehr著『Behavioral Economics』(Routledge)があります.
(注7)行動経済学の最初の一冊としては,本学経済学部小林佳世子先生の『最後通牒ゲームの謎』(日本評論社)を(決して身びいきではなく)オススメします.