教員コラム 経営学専攻
読まれないままの"古典的名著"、"原著" (経営学 赤壁 弘康 教授)
2021年12月01日
読まれないままの"古典的名著"、"原著"
私は以前、本学のどこかのコラムで、学部生時代にケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論』を丹念に読むというゼミに所属し、ケインズのオリジナルの考えに触れる機会があった、と書きました。その後大学院に進学、大学に奉職して研究活動をスタートさせると、いつの間にか"古典的名著"や"原著"を丹念に読むという機会から遠ざかってしまっている自分自身に気づきました。
大学院生は2~3年の在籍期間内に学位論文をまとめ上げなければならず、とても"古典"を紐解く余裕などありません。研究者として研究活動に従事するようになっても、短期的に研究成果を求められるうえ、次々に優れたテキストや斬新な論文が発表され、それらをフォローしながら研究論文を執筆するとなると、とても"古典"や"原著"にあたる余裕はなくなります。言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、こうした状況は私個人だけでなく、多くの研究者に当てはまるのではないでしょうか。
正直に告白すると、まだ若い頃の私は、内心で「"古典的名著"や"原著"は確かに大事だけれど、あまりそれらに引きずられるのもどうか」と感じていました。生意気なことに、「原典の大切さ」に言及するのは最新研究についていけなくなった老先生がいかにも言いそうな嫌味だ、と(若干の軽蔑をこめて)思っていたのです。
しかし、ずいぶん後年になってから(既に50の大台に乗っていたように思います)、日本が誇る世界的数学者の伊藤清先生がまだ名古屋大学で大学院生を指導されているとき、ことあるごとに「大事なことはすべてLévy に書いてある。Lévyを読め」とおっしゃっていたという逸話を耳にしました。伊藤先生が確率解析の分野で世界のトップをひた走っていらした頃の話で、ある研究会で伊藤先生の高弟である飛田武幸先生から直接伺いました。伊藤先生の指導を受けて、飛田先生ご自身は「習ったこともないフランス語と格闘することになった」と笑っておられました。それで私自身も、"古典的名著" や"原著"の大切さに、再び気づかされることになったわけです。
もっとも、"古典的名著"や"原著"を丹念に読むという作業は、口で言うほど簡単ではありません。大著である場合はもちろんですが、はるかに短い学術論文ですら読みづらい。ひと言でいえば、古臭い、今ではもっと簡便な手法が知られているのに、と感じてしまう。一見冗長に思える部分にこそ、実は自分がいま取り組んでいる問題のヒントが潜んでいるかもしれないのに...。
私自身も大学の同僚たちとの研究セミナーで、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの『ゲームの理論と経済行動』の輪読に挑戦しましたが、いつの間にかセミナーが立ち消えになって挫折してしまいました。このように挑戦しては挫折する繰り返しで、私の研究室には未読の"古典的名著"や"原著"がどんどんと積みあがっていっています。とても残念なことで、忸怩たる思いです。「間もなく定年退職を迎えることになるのだから、こうなれば退職して時間に余裕ができた際に、再挑戦することにしよう」と言い訳しながら、研究室の読まれないままの「原典」たちに詫びる日々を送っています。