教員コラム 経営学専攻
経営学専攻 中島裕喜 教授
2021年01月15日
ビジネスパーソンのための"経営の戦後史"
企業経営の最前線に立たれているビジネスパーソンにとっての主要な関心事は、AI、IoT、DXといった技術革新、またはSDGsで取り上げられる様々な社会的解決課題などではないだろうか。いずれも未来志向のトピックであり、これらをビジネスと関連付けて論じることへのニーズが高まりつつあるように思う。一方、私が社会科学研究科経営学専攻で受け持つ「経営史」という講義は、企業経営や産業発展の過去を振り返る「後ろ向き」の学問である。一見するとビジネスの実践からは遠い「象牙の塔」の学問と受け止められがちであるが、近年は歴史の理解がビジネスの成功に不可欠であるという意見が注目を集めている。以下で、簡単にご紹介したい。
まず経営史を専門とする研究者の集まりである経営史学会の会長を務めた橘川武郎氏(国際大学教授)は、「応用経営史」という概念を提唱している(『応用経営史 福島第一原発事故後の電力・原子力改革への適用』文眞堂)。橘川氏は「経営史は実用的で役に立つ」学問であり、応用経営史の手法を用いることで、産業や企業の発展のダイナミズムを析出し、直面する今日的な課題の解決法を展望することが可能になると主張する。その含意は「どんなに立派な理念や正しい理論を掲げても、それを、その産業や企業がおかれた歴史的文脈(コンテクスト)の中にあてはめて適用しなければ、効果を上げることはできない」というものである。つまり、企業や産業の成功や失敗は一般理論や他社の成功事例を安直に適用することで理解・解決できるようなものではなく、それぞれの企業に固有の状況下で生じた経緯を踏まえることが不可欠なのである。
経営戦略論の立場から同様の主張をしているのが、楠木建氏(一橋大学教授)である。楠木氏は近著『逆・タイムマシン経営論』日経BP社(社史研究家の杉浦泰氏との共著)において、ビジネスの世界では意思決定を狂わせる「同時代性の罠」が存在すると説いている。そうした罠から逃れ、本質を見極めるための有効な方法として、楠木氏は「歴史的変化を辿る」ことを重視している。楠木氏も歴史的事実の強みとして「一つひとつのファクトが豊かな文脈を持っている」ことを挙げ、同時代の人々の関心を引くバズワードが飛び交う現代だからこそ、ビジネスパーソンにとって「パストフルネス」が差別化の武器になると論じている。
歴史的な認識法の有効性は以上のようなコンテクストの理解にとどまらない。「制度化」もその1つである。例えば日本企業の多くが採用してきた長期雇用制度は、近年は批判の的となり、ジョブ型雇用への転換が急務であるという議論が高まっている。しかし歴史を見てみると、日本社会に広く定着したのは1950~60年代の高度経済成長期である。それ以前の時期は、一部の企業や階層の人々にしか適用されてこなかった。こうした歴史的な事実を知らないと、まるで長期雇用は日本社会に固有の文化であるかのように誤解されてしまう(その延長線上にあるのが日本のビジネスパーソンが大好きな「擦り合わせ」であろう)。その有効性はすべて、ある固有の歴史的な条件下においてのみ成立する。その条件とは、企業経営の様々な側面(コーポレートガバナンス、資金調達、サプライチェーンなど)が相互に支え合う仕組みであり、それはさらに国内の社会的な諸条件、国際環境などを土台としている。つまり長期雇用やメンバーシップ型経営の終焉は、その背後で相互補完的に機能してきた経営の諸側面や社会の変化を前提としているのである。
このように述べると歴史はやはり複雑でビジネスパーソンには理解しがたい、それこそ「象牙の塔」の学問であると遠ざけられてしまうかもしれない。しかし、現代の日本企業に焦点を絞れば、さしあたりはアジア太平洋戦争によって生じた「総力戦体制」という経済システム、そして戦後におけるシステムの形成と洗練のプロセスを概観することで最低限の理解を得ることは十分に可能である。歴史を知ることはビジネスに必要な3つの目のうち、「鳥の目」を持つことであり、現場重視の「蟻の目」で日々過ごしているビジネスパーソンに新しい視点を提供してくれる。歴史と言えば年号を丸暗記させられた嫌な思い出しかない方にも、是非ビジネスに活かせる歴史を学んでほしい。