教員コラム 経済学専攻
働くことの倫理とベーシックインカム(経済学 阪本 俊生 教授)
2025年06月13日
昨年、『時報しゃりんけん』という南山大学社会倫理研究所が出している小冊子のなかの〈社会倫理の道標〉というコーナーがあります。社会倫理に関する一定のテーマから、書籍を10冊ほど紹介するというものです。これの原稿依頼を受け、私は「働き方の倫理」についての本を紹介することにしました。短文なので、できれば是非お読みいただきたいのですが、私がこれをテーマに選んだきっかけは、最近、〈ベーシックインカム〉に関心をもち、ここ2年ほどゼミのテーマにしていること、またAI化が進むなか、人間の働き方を見直す必要が迫っていると感じられること、さらにこれまでの自殺論研究(こちらは2020年に『新自殺論』という共著を出しました)にかかわること、そして、数年前に出版された文化人類学者のディビッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』に関心をいだいたことなどがあります。
ちなみに、グレーバーのこの本は世界中で話題になり、私も一昨年の社会倫理研究所のトークラボでこれについて話しました。内容をかいつまんでご紹介しますと、この本の背景には20世紀後半以降、技術の飛躍的発達により、人びとが実際にやらなければならない仕事の量が急速に減ってきたという実態があります。にもかかわらず、旧来からの経済・政治のシステムや慣習、そして意識のなか、政府は失業率や貧困抑制の名目で、多くの人びとに仕事をあてがう必要に迫られています。このことへの対応から、政府と企業は、不要な仕事をあえてどんどんと増やしつつある、というのです。ただし、ここで不要というのは、経済的に不要とか、儲からないとかの意味ではありませんので注意が必要です。また、無駄だけど面白いとか、楽しませてくれるものは不要という意味でもありません。これは遊び的なものを否定するものでもありません。たとえ儲かったとしても、働く人びと自身がそれを不要ではないかと感じている仕事という意味です。いわば、雇用のための雇用の創出です。そのためにブルシットな仕事が増やされ続けている、というわけです。たとえば、「少しでもよくなるのなら、できることは何でもやりましょう」という、(私の嫌いな)優等生的トークが思い起こされます。
ところが給料や生活のためだけに、あまり必要とも思えない仕事や作業をやらされ続ける側の人びとにとっては、これはたまったものではありません。自分の仕事に疑問をもち、やる気も失い、これに悩まされる人が増えてきている...この実態を暴いたのが本書です。ただし、この話は日本人にはあまりピンとこなかったようです。「お金がもらえるんだからいいじゃない?」というのかもしれません。ブルシットな仕事や作業に対する、日本人の耐性や我慢強さを語ると長くなるので、ここでは控えますが、良くも悪くも日本の教育や学校のあり方の影響もあるだろうと私自身考えています、とだけいっておきます。ただ、それでも、最近、若い人を中心に、離職率や転職率が増え、うつ病や引きこもりも増えているともいわれます。AIがいまよりさらに普及すると、状況はもっと深刻化する可能性もあります。
話をもとに戻しますが、こうした状況と関心のなか、私は人が「働く」ということと、「生きる」ということの倫理について考えさせてくれる本を紹介したいと考えたのです。そして、現代は、これを改めて考える、まさに時代の転換点に来ている考えています。ベーシックインカムを考えるのもそのためです。
ベーシックインカムとは、「働く」ことと「生きる」ことのつながりの見直しを必要とする考え方である、と私は考えます。すなわち、「働く」ということを、いまよりもっと幅広くとらえてもよいのではないかという見方です。アメリカで幸福度研究をしているトム・ラスとジム・ハーターは、「仕事とは、生計を立てるための仕事ではありません。ボランティア活動、子育て、勉強なども含む"一日の大半を費やしていること"が仕事です。"心から好きで毎日していること"も含まれます」と言っていますが、この考え方にはとても共感を覚えます。すなわち、市場化された労働のみを仕事と見なし、それらにのみ対価を支払うという、従来の考え方にとらわれ続けることは、これからの社会形成にとってマイナスではないか、ということです。
一例を挙げれば、子どもの出産と子育てです。かつてとは異なり、現代の親たちにとって、出産・子育てに経済的メリットはほとんどありません。それどころか、お金だけで考えると損失ばかりのようにも思えます。子どもは大きな贅沢品と言われたりすることがあるのもそのためです。しかし、子育ては社会にとっても経済にとっても、とても重要な仕事です。社会は次世代の人びとが生まれることで継続しますし、子どもたちはのちの労働力となっていくわけです。ところが、子育ては現状では経済的支払いのない労働です。これでは少子化になるのも当然と言えば当然です。誤解のないようにお断りしておきますと、子どもは親にしばしば大きな精神的メリットをもたらしますし、このことを私は十分に承知しておりますが、いまはあえてそれにはふれません。また、もちろん、経済的対価の支払われない仕事は子育てだけでなく、家事や介護、まわりの人びととの関わり、ちょっとしたお手伝い、子どもの勉強(これは場合によってはかなりの重労働です)、ボランティア活動等々ときわめて多岐にわたります。
しかし、その一方で、いまはお金の社会でもあります。お金がないと人は生きてはいけない仕組みになっています。だからこそ、こうした営みのすべてに対して、そしてあらゆる人びとに、今日の経済の豊かさのなかから一定の対価を払うこと、さらに、これを援助や保障といったものではなく、生きることの権利として認める、ということがあってよいと思えるのです。このことは、ひいては社会にとっても経済にとってもプラスに働き、さらに理にかなってもいるのではないかとも思えます。社会関係を立て直し、少子化や貧困、失業の問題をなくすだけでなく、私たちが自尊心を回復し、自分が本当にやりたい活動にエネルギーを注ぐことを可能にし、さらに望まない孤立や孤独も少なくし、幸福を増進させるのでないか、と思えるのです。
いずれにせよ、私たちの働き方の倫理に関する視野を広げ、現代社会の問い直しにつながる本をいくつか紹介しましたので、よろしければ『時報しゃりんけん』第17号(2024)をどうぞご笑覧ください。