教員コラム 経済学専攻
(2024.7.12写真を追加しました)「松坂屋」本館のことー屋上ロゴ看板の撤去に思うー(経済学 林 順子 教授)
2024年07月01日
この稿を認めている2024年6月11日、まさに今、名古屋市中区の「松坂屋」本館の屋上に設置されていたネオン付きのロゴ看板が、老朽化を理由に撤去されつつある。
「松坂屋」は、名古屋城下町が形成され始めた頃の1611年創業、1736年に呉服太物小売商に転業した伊藤次郎左衛門家(屋号は「いとう」)が元となる。江戸時代以来変わらない、"藤"の字を"井(い)"と丸印で囲んだ店の標しは、通称"いとう丸"と呼ばれる。今回撤去されたロゴ看板にも、堂々と"いとう丸"は掲げられていた。ネットニュースでは、これがバラバラに解体される動画がヒットする。昭和生まれの名古屋人としては、いささか胸が痛む風景である。
創業400年を超える「松坂屋」の歴史は、名古屋の歴史でもある。
名古屋城外堀の前、茶屋町本町通筋のいわば江戸時代の一等地にあった「いとう」は、明治後期の1910年に広小路に移転した。移転先の土地には名古屋市役所があったのだが1908年に焼失し、空き地となっていた。1910年は名古屋開府300年の記念の年であり、かつ第10回関西府県連合共進会を名古屋で開催することも決まっていた。複数の重要なイベント開催を前にして、当時の伊藤家当主伊藤祐民が店内の反対派を抑えて市役所跡地を買い取り、名古屋で初めての百貨店「いとう呉服店」を開業したのである。
その後、工業化、都市化が進んだ名古屋は人口も増加し、広小路の「いとう呉服店」は手狭となった。そのため1925年南大津通に移転し、店名も現在の「松坂屋」に変更された。
大きな変革にあたり「松坂屋」は、市民に向けて様々な広告形態で、新しい店名と新店舗をアピールした。そのときの配布物は、運が良ければ今でも古本屋のネット販売で見かけることができ、私もいくつか購入させていただいた。
例えば、店内の施設案内を兼ねた双六がある。年少者が喜ぶ玩具やリボン売り場、屋上動物園、コドモ会(演芸場)などのコマや、ショール、家具、旅行鞄など大人向け商品売り場のコマもある。どれも興味深いが、中でも目を引くのは"ニューマチック 送金機"と表示されたコマである。このコマは二分割されていて、一つには、売り場にいる女性が、そこに備え付けられている太さ20センチほどとみられる1本の管に、ジュース缶のような形状の容器を入れている場面、そして一つには"計算場"として、机の前に並ぶ男性たちが目の前の管から出てくる容器を受け取る場面が描かれている。離れた場所に空気圧で代金の入った容器を飛ばす器機"ニューマチック"は、「松坂屋」が市民にアピールしたがるほどの最新施設であった。
残念ながら1945年の大空襲で被災するも、4年後の1949年にほぼ復旧し、市制60周年記念として市観光協会は「松坂屋」本館屋上に、戦火に消えた名古屋城天守の約10分の1の模型を設置した。更に4年後、1953年頃設置されたネオン付きロゴ看板は、戦後復興の進展とその後の高度経済成長を予感させるものであった。そして70年の時を経た今、これが撤去されるのもまた、施設の老朽化とはいえ、どこか、百貨店を含む小売業界の構造変化の現れのようにもみえるのである。
【写真】1949年松坂屋本館屋上の"名古屋城"
名古屋市鶴舞中央図書館蔵、ウィリアム・S・ペリー氏撮影「Matuzakaya Dept Store NAGOYA 1949」
(『一米国人の見た戦後の名古屋』名古屋郷土文化会、2014年、p.23所収)