教員コラム 経済学専攻
経済学専攻 川本 真哉 准教授
2020年12月15日
地銀再編の経済史
先日、興味深い記事を目にした。経営統合を決めた地域銀行へ政府が補助金(日銀当座預金口座の利子引上げ)を給付するという内容であった。これには、銀行経営の健全化を目指す意向があるという(「号砲 地銀再編(上)」『日本経済新聞』2020年12月1日)。
振り返ってみれば、政府の制度設計は統合の波動を地銀業界にもたらしてきた。その第1の波動は1920年代に訪れた。かの有名な「片岡失言」によって引き起こされた金融恐慌(1927年)下において、「銀行法」が制定されたことが地銀統合を後押しした。同法は1981年の改正まで続く息の長い法律であったが、その内容には最低資本金の設定などが含まれていた。これには体力のない銀行が破綻して預金者の利益を毀損したことへの反省があったという。同法は劇的な効果を発揮し、1925年には1,600を超えていた普通銀行の数は統合、廃業などにより、1930年には800弱へと半減した(三和良一・原朗編『近代日本経済史要覧』東京大学出版会、2007年。その後、1930年代以降の1県1行主義により、この流れはさらに加速する。なお、銀行統合の歴史的インプリケーションについては、岡崎哲二『経済史の教訓:危機克服のカギは歴史の中にあり』ダイヤモンド社、2002年、が参考となる)。
一方、戦後の地銀統合の波動は1990年代末以降に発生した。それは都市銀行の統合から始まり、地銀へと波及した。地域経済の減速、ゼロ金利政策による収益源などが原因であったが、統合の触媒となったのが、純粋持株会社の解禁(1997年)であった。同方式を利用することで、共同持株会社の下に、統合参加行をぶら下げるだけで統合が完了する。従来の合併方式のように組織を融合する摩擦を回避できるため、長期雇用で固有の組織文化を築いている日本企業にはメリットがあるいう。1990年代末以降の29件の地銀統合のうち、20件(約7割)が持株会社方式を活用したものであった(レコフデータ『レコフM&Aデータベース』により集計)。
では、冒頭の補助金政策は、地銀統合の波動をもたらすのであろうか。補助金形態は新たな統合支援策とも捉えられることから、実務的にも、また研究対象としても、注目が集まるところである。